朝倉藤四郎

短刀朝倉藤四郎

享保名物帳にも所載されている粟田口吉光作の短刀として知られているのが、朝倉藤四郎(あさくらとうしろう)です。
人の名前と感じますが立派な刀の名前であり、「短刀銘吉光(朝倉藤四郎)」として記録されています。

伝来説は諸説有りますが、一節には、越前朝倉左金吾貞景が元の所持者という説や、義景が上洛した際に、細川伊豆守より求めたという説もあります。
ただ、前者の説の場合は、当時貞景は左金吾であり、つま左衛門督にはなっていないこともあり、朝倉左金吾義景の所持者説が濃厚と言われているでしょう。

義景滅亡後は、各地を転々とした後、尼崎城主、青山大蔵少輔に帰されたとして知られています。
本阿弥家ではこの時、千貫の折り紙を付けましたが、後慶安元年に井伊兵部少輔直好が訪ねてきた際に、60枚に増やして対応したとされています。

その後、1681年の正月鑑定の際に百枚、1683年、将軍に献上した後、1697年には百三十枚としましたが、更に、1707年、二百枚に上がったとして、記録にも残されています。
継平押型の押形記録には、実に二百枚極と注記されている事から、転々としたことがうかがえるといえるでしょう。

歴史に名を馳せる偉大なる刀工の一人、粟田口吉光

そんなつり上がり続けた価値を持つ朝倉藤四郎を作り上げた、粟田口吉光。
京都の粟田口の名工の一人として知られており、吉光自身が通称、藤四郎と呼ばれていたとされています。

鎌倉の名工、岡崎正宗と並び非常に名高い刀工として、当時多くの偉人が彼の元を訪れ、親兄弟の作から、鎌倉中期の刀工として仕事をしていました。
豊臣秀吉からは正宗、郷義弘と共に、天下の三名工と称され、短刀を中心に、身幅、大配とも、尋常な作品を作り上げてきた傾向があるでしょう。

朝倉藤四郎の場合も、長さ23、5㎝で打反りと、現代で言うところの包丁のような作品を作り上げており、その切れ味足るや、他の作品とは比べものになりません。

また朝倉藤四郎の他にも、厚藤四郎や後藤藤四郎など、各地の美術館、博物館に所蔵されている作品が多く、物によっては重ねが厚い作品も作っていたとされています。
特に、無名の名物である無銘藤四郎は、元重ねなんと7ミリを超えており、ただの短刀と呼ぶにはあまりにも存在感がつよい作品も存在している点が特徴です。

古来より多くの偉人から重宝され続け、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からも愛された作品を作り続けた、粟田口吉光。
業物を始め、世に名を馳せる多くの刀を輩出したこともあり、古来より、珍重されてきたとして、歴史に名を刻み続けて居るといえるでしょう。

その作品は今もなお至るところで輝きを放ち、国宝指定されている短刀も少なくありません。